思索の試作

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最後の「大好きの選択」へ祝福を:楠木ともりさんの虹ヶ咲卒業に寄せて

2022年11月1日。それを見た私は一呼吸おいてからスマートフォンを閉じ、そっとベッドの上に仰向けになりました。いつかは決断が下ることだっただろうと自らを納得させようとする理性と、動揺を隠せない感性が私の中でせめぎ合っていました。

 

 

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』(以下、虹ヶ咲)優木せつ菜・中川菜々役 楠木ともりさんの降板が公になってから今日で3か月になります。私なりにこのことに向き合おうと思い、拙い言葉ながらこれまでに考えてきたことを、ここにまとめておきたいと思います。

 

 

1. 孤独な猶予

私たちの住む現実世界では、成長期を除いて人の声がある日突然変わるということはめったにありません。よく知る人にそんなことが起こったらきっと当惑するでしょう。ましてやフィクションのキャラクターにとっての"声"は、聴き手にそのキャラクターを同定させ人格を信じ込ませるための数少ない重要な要素の一つです。
その"声"を取り替えるという誰の目にも明らかな大手術を、ラブライブ!シリーズは初めて経験することになりました。

 

ラブライブ!メンバー単体の魅力とメンバー同士の関係性の双方を、キャラクターの次元とキャストの次元の両面で掘り下げていく*1、2×2のコンテンツ構成を得意としています。そのキャラクターとキャストのシナジーはライブなどで遺憾なく発揮され、私たちを時に圧倒し、時に驚かし、時に笑わせ、時に感動させてくれるものです。
それゆえに「楠木さんが演じるせつ菜」だけではなく、「せつ菜を演じている楠木さん」や「キャスト同士で絡む楠木さん」のことを楽しみにしていたファンも多いはずで、そこに今回の卒業が与えるインパクトは計り知れないものがあります。

 

隣で踊っているメンバーを見るとどうしようもなく自分も同じことがしたくなってくる、と楠木さんが涙ながらに語ったことがあります*2。ステージ上で体いっぱいにせつ菜を演じたいのに、身体がそれに追いつかない姿を一万を超える観衆に見せつけなければならない苦痛。それを楠木さんはたった一人で抱え続けなければなりませんでした。替えが利かない仕事のやりがいや使命感は、裏を返せば逃げ場のない重圧をもたらしてしまいます。特に役と芝居に妥協を許さない楠木さんにそれは重くのしかかったことと思います。「歌だけでも良いからステージで姿を見せてほしい」、という私のようなファンからの素朴な願いは、ご本人にとっては拷問にも等しい声援だったかもしれません。

 

だから、体調不良の発覚と同時に降板を申し出るという選択もあったはずです。それでも楠木さんはそこから2年以上の間、優木せつ菜役・中川菜々役を背負い続けることを選びました。
そしてその間、虹ヶ咲は2度のドーム公演にアニメ2期とさらに大きな飛躍を遂げ、より多くの人々の心にその歌と言葉を届かせることができたのです。アニメ1期で作品を深く知り、4thライブで初めて現地へ足を運ぶことができた私も、紛れもないその一人でした。京セラドーム大阪で観た『ヤダ!』も、東京ガーデンシアターで観た『MELODY』も、楠木さんがせつ菜で良かったと思える景色がいくつも脳裏に焼き付いています。
いつかは決断しなければならないモラトリアムの延長だったとしても、孤独に苦痛を引き受けることと引き換えに、その時までずっと全力でせつ菜に生命を吹き込んでくれたこと。近江彼方役の鬼頭明里さんは寄せ書きで「ギリギリまで頑張ってくれてありがとう」*3と声をかけました。キャストの心身の健康を考えれば単なる美談としては語れませんが、その間にも多くの人々がせつ菜に出会えたことに心から感謝したいと思います。

 

またその決断の時においても楠木さんとプロジェクト!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会は、ファンがなるべく率直に受け止められるように最大限の配慮を欠かしませんでした。ご本人の自発的な意思を重んじるプロジェクトからの丁寧な説明、楠木さんからのあくまでも前向きな意思表明、キャスト12人からの寄せ書き。このような交代でネガティブな議論を引き起こしてしまう作品も多い中、できる限り禍根や憶測を残さないよう工夫されたきわめて円滑な発表形式となったと思います。

 

「途絶えかかった大好きは、確かにあなたへ繋がっていた」

 

2. 残ったもの

私が初めて楠木さんのことを知ったのは、2018年のTVアニメ『ソードアート・オンライン オルタナティブ ガンゲイル・オンライン』でした。楠木さんの活動初期における主役キャストでしたが、現実世界とフルダイブゲームの世界内で異なるキャラクターの演じ分けの妙や、優しい声で歌われたエンディング曲『To see the future』のことを印象的に記憶しています。
しかしその後、楠木さんの魅力をより深く知ることになったのは虹ヶ咲を通してでした。メンバーと笑いあうだけで場が華やぐ明るさ、コメントや挨拶ににじみ出る作品への深い洞察、歌と芝居に対する一貫した妥協のない姿勢。こんな傑出した人物を虹ヶ咲が失うのはあまりにも惜しいと思うと同時に、虹ヶ咲でなければここまで楠木さんに深く触れることはなかったと思います。そこから興味が広がり、昨年の12月にはソロアーティストとしての楠木さんのライブ*4にも参加してきました。張り上げる歌声と今にも消えてしまいそうなウィスパー、客席とバンドメンバーを巻き込む楽しいMC、考え抜かれた自作のライブタイトルとタイトルロゴ、細部にまでこだわったグッズ考案など、楠木さんらしさが詰め込まれた素晴らしい場所でした。
キャラクターとキャストの両面へクローズアップするラブライブ!のコンテンツ展開の中で、いつの間にかキャスト本人にもトキメキを見いだし、その背中を押したいと願うようになった人は私のほかにもたくさんいるはずです。楠木さんが虹ヶ咲に残してくれたものは枚挙に暇がないですが、反対に虹ヶ咲がこれからの楠木さんに残してあげられたものがあるとするならば、その一つはこれではないでしょうか。

 

「あなたの大好きだって、私は見ていたい」

 

3. 最後の「大好きの選択」

2023年1月10日、新規制作が発表されているスマートフォン向けゲーム「ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル2 MIRACLE LIVE!」における優木せつ菜のメンバープロフィールが掲載され、そこにCV名の記載がないことが小さな話題となりました。

lovelive-sif2.bushimo.jp

「私といっしょに大好きがいっぱいの世界を作っちゃいましょう!」で締めくくる彼女のセリフは、虹ヶ咲の活動初期に公開された意気込みコメントの一節です。優木せつ菜がその重要なパートナーを失った出来事を前にして、このセリフは皮肉じみた言葉になってしまったという呟きを目にしたことがあります。誰よりも強い思いでどれだけ頑張ったとしても、どうにもならず道半ばで夢を諦めなければいけない時がある、という現実に目を向けなければならないということなのでしょうか?しかし、本当にそれだけだったのでしょうか?

 

楠木さんにとっての「大好き」とは何でしょうか。歌うこと、声を吹き込むこと、それによって誰かの心にあかりを灯すこと。そうして巡り会った虹ヶ咲という場とメンバーのこと、せつ菜のことも「大好き」の一つになっていたに違いありません。であるならば楠木さんのこの決断は、自らがせつ菜を演じるという「大好き」と比べて、自らの愛した虹ヶ咲とせつ菜がさらに輝いていくという「大好き」を選び取ったことに他ならないのではないでしょうか。
私にはせつ菜と同じように歌って踊ることはできません。しかし、自分には辿り着けないステージにまで誰かを押し上げること、この人だ!と決めた誰かへ夢の実現を託すことが"推し"という行為だと思います。今、数万人のファンと沢山のスタッフ・メンバーと、加えて一人のキャストがせつ菜にその夢を託そうとしています。これからの私たちが目指すのは、そんなせつ菜の野望が叶うよう声援を絶やさないこと、そんな「大好きがいっぱいの世界」をこの目で見届けることではないでしょうか。その景色こそが、虹ヶ咲のキャストとしての楠木さんが最後に選んだ「大好き」だからです。

 

アニメ2期6話では、スクールアイドルフェスティバルと文化祭の同時開催に暗雲が立ち込めたとき、一人で問題を抱え込んで諦めようとしていた菜々は同好会メンバーや他校のスクールアイドル達に助けられ、無事開催へとこぎ着けることができました。大切な仲間となら一人でできないことだって成し遂げられる、という象徴的な回です。今回は皆の力で楠木さんを助けることこそ叶いませんでしたが、その願いを皆で受け止め、未来へ繋いでいくことならできるはずです。この「大好き」の連鎖は、10年以上もの間ラブライブ!とそのファンが脈々と続けてきたことでもあります。
楠木さんご自身も「大好き」の実現を決して諦めたわけではありません。1stアルバムの制作が発表されたアーティスト活動に、続々と新作品へのキャスティングが決まっている声優活動で、その挑戦は続いていきます。


まず今できるのは、2月4日・5日のA・ZU・NAユニットライブとその後の振り返り生放送など、虹ヶ咲で楠木さんと過ごせる時間を残さず楽しむことです。そして4月以降、次のパートナーとなる新キャストを暖かく迎え入れるところから始まります。キャラクターの側としては、新しいせつ菜にどのくらい馴染めるか私はまだ正直分かりません。それでもキャストの側では、3度にわたって4人の新メンバーを仲間に加えて全員でライブまで大成功させた虹ヶ咲ならきっと大丈夫、という根拠のない予感があります。

 

もっとも、楠木さんと共に歩んできたここまでの道のりで、せつ菜は既にその野望を少しずつ叶え続けてきたともいえます。その輝かしい記憶はこれからもせつ菜と私たちと共にあるでしょう。しかし、始まったのなら貫くのみという優木せつ菜がここで立ち止まるのはらしくありません。

この先を見据えれば、想像の将来を越えて越えて、その向こう側にある世界はきっと青いはず。それを確かめに行く新しい道のりが、まもなく始まります。

 

「大好きは色を変え、音を変えてどこまでも」

*1:ファンが勝手に掘り下げていく面もある

*2:5thライブ Next TOKIMEKI公演 Day.2

*3:https://twitter.com/LoveLive_staff/status/1587370806090248192?s=20&t=EZh9Qr4r_Nc960P3dAgEjg

*4:Kusunoki Tomori Birthday Live 2022『RINGLEAM』

「お返しします」から「行ってきます」へ:『すずめの戸締まり』が描く、過去と未来の間で生きること

※本稿は『すずめの戸締まり』のネタバレを多分に含みます。また映画本編と同様に、衝撃的な地震災害についても言及しています。閲覧には十分ご注意ください。
※本稿の内容はあくまで筆者による一解釈であり、それ以外のあらゆる考察や感想を排除するものではありません。

 

2022年11月11日、新海誠監督による新作アニメーション映画『すずめの戸締まり』が公開されました。川村元気氏のプロデュースによる『君の名は。』『天気の子』に続く、同監督の記録的ヒット作の3本目になると早くも目されています。
"災害三部作"とも呼ばれるこれら3作品のなかでも、今作では自然災害についてより直截的で深刻な表現が多くみられました。本稿ではその物語の要素をかいつまんで振り返りつつ、作品に根差しているテーマを私なりに整理してみます。

 

 

1.思い出すこと、忘れないこと

主人公の高校生・岩戸鈴芽は、通学路の坂道で大学生の青年・宗像草太と出会います。草太は日本全国の廃墟に現れる「後ろ戸(うしろど)」を探しては鍵をかけて回る、「閉じ師(とじし)」の末裔です。
後ろ戸の先には"すべての時間があ"るとされる死者の世界、常世(とこよ)が広がっています。後ろ戸が開いていると常世から巨大な「ミミズ」が飛び出てきてしまい、そのミミズが金の糸に引かれて地面に叩きつけられるとき、こちら側の世界である現世(うつしよ)に地震が発生する、という仕組みになっています。
またミミズが見えるのは閉じ師の草太や後ろ戸をくぐったことがある鈴芽に限られています。そのため大多数の現世の人々には地震の発生を予見することはできず、携帯電話から突然一斉にけたたましく鳴り響く緊急地震速報に驚かされ、準備もままならないうちに直後に訪れる揺れからなんとか身を守るのがやっとです。緊急地震速報を模した警報音や揺れに伴う轟音が、劇場の大口径のスピーカーから大きな迫力をもって表現されます。地震の後に鈴芽たちが目にしたのは、屋根瓦が落ちて損傷した家屋や部屋中に散乱した家財などでした。また本編の後半では東北の帰還困難区域や津波で建物がすべて流され基礎だけが残された街など、衝撃的な光景も登場します。
世界的にも地震の多い地域である日本に住む私たちにとってこれらの映像・音響体験は、自らが実際に経験あるいは見聞きした地震のこととどうしても結びついてしまうことでしょう。大きな地震であればあるほど街を激しく破壊し、時には人の命をも奪い、綿々と続く日常を一瞬にして途絶えさせてしまうことを私たちは知っています。関東地方の劇場でご覧になった方は、宮崎、愛媛、兵庫、そして次は東京と、予知も抵抗もできないミミズの襲来に恐怖を抱かれた方もいたかもしれません。
言うまでもなく、鈴芽たちが巡った阪神・淡路*1や東北はかつては実際に大震災が襲った場所でした。今年はその発生からそれぞれ27年・11年が経過しました。災害の記憶の風化が叫ばれる中、本作の描写はその災害のありさまを痛ましいほど生々しく再現し、長い時間が過ぎても忘れてはならないものがあるのではなかったか、と2022年に一石を投じようとしているようにも感じられます。

しかし、ここで想起させられているのは負の記憶だけではない、というのが本作の興味深いところです。
小学校の廃墟で開いた後ろ戸を閉じるとき、草太は鈴芽にこの場所に残された人々の声や想いに耳を傾けるよう促しました。言われるがままに瞳を閉じた鈴芽の内には、下駄箱の前で交わされる往時の生徒たちの他愛もない会話が幾重にも折り重なって聞こえてきます。すると学校の玄関の扉に鍵穴が出現し、鍵をかけて後ろ戸を閉じることに成功したのです。
海部千果はあそこにはもう"何もない"と言いいましたが、鈴芽が感じ取ったように、そこにはかつてたくさんの人々の生活と言葉と感情があったはずです。鈴芽が聞き取った無数の声には楽しいことも嫌なことも、たくさんあったことでしょう。それらを想起することで鍵穴が浮かび上がるというギミックは、正負はともあれ失われつつある記憶に思いを馳せる行為、時には思い出して忘れないでいることに特別な意味を与えているものといえます。

2.繋ぎ留めるもの

後ろ戸を閉じながらダイジンを追いかける草太(椅子のすがた)と鈴芽の旅路は、同時に各地の人々との出会いの連続でもありました。
廃墟の学校の前まで今すぐ行きたいとの不可解な話を聞き入れ、原付で鈴芽たちを送り届けた後、家の旅館の客室を提供して豪華な夕食を振る舞い、自分の衣服までを着替え用として差し出してくれた海部千果。土砂降りのバス停で途方に暮れる鈴芽たちを見つけて*2神戸まで200km以上の距離を送り届けた後、子供の世話やスナックの手伝いは大変だったけれど、突然姿を消した鈴芽を誰よりも心配してくれた二ノ宮ルミ。どれも出会ったばかりの見ず知らずの相手に対して容易に施せることではありません。いくつもの無償の厚意と暖かい言葉に触れるたび、そんな人々の住むこの世界=現世を守りたいという鈴芽の思いは強まったことでしょう。みな鈴芽と抱き合い、再開を約束して別れます。
そして何より、草太への思いを通じて鈴芽の死生観に大きな変化が生じました。自分が死ぬのは怖くない、生きるか死ぬかなんて運でしかない、とかつての鈴芽は考えていました。震災孤児の口から発されるにはあまりにも残酷な台詞です。それが東京の巨大ミミズを治めて草太を失った後には、草太のいない世界が怖いと吐露するまでになりました。だからこそ鈴芽は、環があそこにはもう何もないと言う東北の故郷まで駆けつけ、常世に飛び込んで草太を救い出したのです。
そして常世の丘の上でダイジン・サダイジンの二柱へ祈りを捧げるとき、草太はこう語ります。生命はかりそめだと知っています、死は常に隣にあると分かっています、それでも今一時、今一瞬だけでも生き長らえたい、と。それを聞き届けた二柱は要石へと姿を変え、常世を蠢く二つの巨大ミミズを鎮めることに成功しました。
心から大切だと思える存在、かけがえのない誰かがこの世界のどこかにいるからこそ、人はそれらと共にありたいと願い、死というこの世界からの退出を恐れるようになるのだと思います。千果、ルミ、そして草太。宮崎から東北へ至る道のりの中で鈴芽はかけがえのない存在をたくさん見つけて、そんな人たちと会えなくなるのが嫌だ、つまりこの世界で生きていたいと感じることができるようになったのです。ミミズは要石によって常世に繋ぎ留めらましたが、私たちを現世に繋ぎ留めているのは他の誰かと結ばれた強い思いに他ならないのかもしれません。

3.「お返しします」と「行ってきます」

二つの巨大ミミズを鎮めた鈴芽と草太は、常世で別の女の子の姿を見つけます。それは椿芽を探していつしか吹雪の中から常世へと迷い込んでしまった、幼い日の鈴芽でした。それは母親という子供にとって大きすぎる存在を見失い、現世に自らを繋ぎ留める錨が外れてあてもなく常世を漂流しているかのように見えました。
この少し前に、真っ黒に塗りつぶされた3月11日の日記帳が登場します。綴られている文字はもう読めませんが、高校生の鈴芽がそのページを開いた途端、一帯に鳴り響く大津波警報、椿芽を探して泣き叫ぶ鈴芽の声、そこに同情の言葉をかける大人たちの声が劇場のスピーカーから再生されます。どんなに強引にかき消そうとしても、現実と向き合うことを拒んでも、記憶や感情はその隙間をすり抜けて再び私を襲ってくる、という点で惨くも示唆的なシーンです。無理もないことですが、母親の死を認めたくなかったのか、とにかくあの災禍の光景を忘れたかったのか、鈴芽は3月11日のページをクレヨンで黒塗りにしてしまったのでしょう。*3しかし"本当は分かっていた"のではないか、という高校生の鈴芽からの指摘が鋭く刺さります。*4
そんな幼い鈴芽に手渡されたのが、草太が抜けて普通の椅子に戻った黄色い椅子でした。この椅子を作ってくれた椿芽はもう存在しません。それでも高校生の鈴芽は、"あなたはこれから光の中で大人になっていく"、"これからこの世界で誰かを好きになるし、あなたを好きになってくれる人も沢山見つかる"と語りかけます。それはまさに宮崎からここに至るまでの道のりで鈴芽自身が経験してきたことであり、それに裏付けられた自信の強さが感じられます。椅子と言葉を受け取った幼い鈴芽は自らの足で後ろ戸をくぐり、環の待つ現世へと戻って行くのでした。
これまで現世に襲いかかるミミズを常世へと追い返していた二人ですが、このときは反対に、常世へ迷い込んだ幼い鈴芽を現世へと送り返したのです。ミミズ退治の際の「お返しします」と、全て終えて常世から戻ってきた鈴芽が口にした、この世界で待っている未来への「行ってきます」は、どちらも後ろ戸に鍵をかけるときの合言葉として対をなしています。

4.まとめ

東日本大震災から11年。当時保育園に通っていた鈴芽がちょうど高校生になる頃です。その記憶は誰かにとってはどこか遠いものとなり、また誰かにとっては未だ癒えない爪痕のままで、認識の個人差は少しずつ広がってきているのかもしれません。
この文章を書くにあたって、直接の被災者でない私は一抹のきまりの悪さを感じていました。私にとって震災は一人称の経験ではなく、伝聞と想像によってしか語ることができないものだからです。何気なく書いた言葉が被害に遭われた方々をさらに傷つけることになってしまわないか、このテーマに触れるときはどうしても気にかけてしまいます。他人の不幸をコンテンツとして消費するのか、という批判もあるでしょう。
そしてこの映画を制作している新海監督も、おそらく似たような葛藤を感じられていたではないかと思います。これほどに直截的な描写や言葉が当事者の方々にどのように受け止められるか、予想はしきれなかったはずです。そんな中で本作は封切られ、今の日本でこそ大きな意味を持つこのテーマは様々な意見を交えながら大きな反響を呼び起こしました。アニメーション業界で屈指の話題性と根強いファン層を持つ新海監督でなければ成しえなかったことだと思います。その果断に敬意を表し、私も所感を添えることが許されるのならば、こう締めくくりたいと思います。ミミズのように突然私たちに襲いかかる災害の脅威。後ろ戸に手をかけた時に聞こえてくる、かつてそこにあったはずの人々の生活と言葉と感情。ともすれば語りにくいものとして遠ざけられてしまうけれど、黒塗りの日記帳のように心の中では消せずに残り続ける大災害の記憶。それらを生々しいほど浮き彫りにしつつ、一方でそんな世界の中でもたくさんの大切な存在を見つけて、かけがえのない人々と分かち合う未来を夢見て「行ってきます」と生きることの意味を肯定的に描き出す。鈴芽と草太の物語は、そんな前向きな意志に溢れていました。
いつ終わりを迎えるか分からない生命であっても、避けられない運命があるとしても、今はまだ何も持っていないとしても。大切な存在との出会いを信じて今を生きるのはきっと無意味なことではなく、むしろ何かを成し遂げる代えがたい力になるということは、二人のこの長い旅路が証明しています。

 

*1:愛媛県西条市から兵庫県へ抜ける自動車道は瀬戸大橋経由(瀬戸中央道)と淡路島・明石海峡大橋経由(神淡鳴道)の2つがあるが、本作で後者が選ばれたのには距離が短いのに加えて被災地という含意もあるのかもしれない。

*2:とてつもない観察力である。

*3:心的外傷から身を守るためにはストレスと適度な距離を保つことも時には重要であり、その意味で日記帳を黒塗りにした鈴芽の行動も決して誤りではない。

*4:文化人類学の理解によれば葬儀とは、受け入れがたい故人の死を現実のものと認められるようにするという、残された者のための機能をもつものなのだそう。

夏陰とは何か:『COCYTUS』と『ハルカゼ』に呼応して

※本稿は一部で『EPISODE 4.0 AXiS』第8話までのネタバレを含みます。閲覧にはご注意ください。

※『NATSUKAGE -夏陰-』はフルサイズ楽曲のリリース前であり、解釈には筆者の予想が多分に含まれます。あくまで一意見としてお受け止めください。

1. はじめに

2019年5月9日夜、777☆SISTERS(以下、777☆S)としては『MELODY IN THE POCKET』以来となる新譜『NATSUKAGE -夏陰-』のトレイラーが初公開されました。「『EPISODE 4.0 AXiS』をエンディングテーマとして彩る」*1とも付言され、Tokyo 7th シスターズ(以下、ナナシス)の物語を大きく進める仕掛けとして期待が集まっています。

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筆者は初めてこのトレーラーを視聴したとき、曲調(?)がAXiSの『COCYTUS』と似ているのではないかと直感的に疑いました。そしてよく注意して見れば、この2曲には偶然とは断じがたい共通点がいくつも探し出せることに気が付きました。

本稿ではその『NATSUKAGE -夏陰-』と『COCYTUS』の対比(2.章)をもとに、さらに『ハルカゼ~You were here~』との関連(3.章)も加えて、新曲『NATSUKAGE -夏陰-』の意味するところが何であるか(4.章)を検討します。

 

 

2. 『NATSUKAGE -夏陰-』と『COCYTUS』

『COCYTUS』は2019年2月に衝撃をもって迎えられたAXiS『HEAVEN'S RAVE』のカップリング曲です。『NATSUKAGE -夏陰-』のトレイラーが公開されてたちまち、巷(おもにツイッター)ではこの2曲の親和性の高さが噂されました。

www.youtube.com

まず音楽的には*2『COCYTUS』のサビ前2小節を除けば両者のAメロからサビまでが違和感なく一致する、すなわちテンポとコード進行(?)が一致することがすでに指摘されています*3。どちらもサビの4つ打ちが特徴的であり、どことなく曲調が重なるように感じられるでしょう。

つづいて映像に注目します。画面に質感を与えるような特殊効果(フィルター)として以下のようなものが共通して使用されています。

  • 視界が霞むようなピンボケ(ブラー)
  • 画面を横切る赤みがかった/白みがかったモヤ*4

特に珍しい技法というわけではありませんが、これらによって朧げで幻惑的ともいえる印象が映像に加わっていることがわかります。

それだけでなくさらに決定的なのが、どちらもサビ後半でキャラクターのイラストに変化が現れるという点です。具体的には、『NATSUKAGE -夏陰-』のハルが瞳と口を閉じて笑顔を見せた一方、『COCYTUS』のネロは無表情のまま瞳を閉じたのです。

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もともとは静止しているイラストにさまざまな効果を足してダイナミクスを演出するのがモーショングラフィクスですが、このようにイラスト自体に差分を用いたトレイラーPVは現在のところナナシスではこの2曲のほかにありません(のはず)。曲中のタイミングも顔の部位も一致していることからほぼ意図的と思われるこの対比関係が、777☆SとAXiSの違いを象徴的に際立たせています。

人はどんなときに微笑むでしょうか? だれかを見かけて会釈するとき、嬉しい事があったとき、何かにわくわくしているときなど様々ですが、どれも「対象となる人やものがあってそこに好意を向けようとする」表情であることは確かでしょう。それに対して人が黙って目を瞑るのは、眠りに落ちる前だとか、電車で一人座っているときとか、興味の湧かない授業中だとか…。眠たいと言えばそうですが強いて言うならいずれも「周囲に対象となる人やものがなく何も見つめる必要がない、または対象があってもそこから目を背けたい」とする内面がうかがえるのではないでしょうか。それぞれが直面しているものは異なれど、微笑むハルと目を瞑るネロ。これは端的に言えば、777☆Sは他を受容し/AXiSは他を拒絶するという態度の差を明確に物語っているといえます。

3. 『COCYTUS』と『ハルカゼ~You were here~』

ところで2019年3月に初公開されたAXiS『COCYTUS』は、遡って2017年4月に発売された777☆Sのシングル『ハルカゼ~You were here~』とも対になっている、と多くの人々から指摘されています*6

ここでも2曲の最大の共通点はキャラクターイラストです。どちらも降り注ぐものを手のひらに載せるかのように、空のほうを見て手を額より高く掲げる姿勢をとっています。空を舞うものは一方では燃えかすのような灰色の欠片、一方では散りゆく桜の花びらです。

f:id:thicksack:20190526214903j:plain f:id:thicksack:20190526214948p:plain *7

さらに声の出演については、セブンスシスターズの七咲ニコル役・AXiSの天神ネロ役を務める水瀬いのりさんと777☆Sの春日部ハル役を務める篠田みなみさんが、『ハルカゼ~You were here~』付属の短編アニメーション『t7s Longing for summer Again And Again ~ハルカゼ~』においてはそれぞれ涼原カホルと鳴海アカネのCVを担当されています。『ハルカゼ』アニメはハル達の生きる2034年より少し下った2040年が舞台で、カホルとアカネもナナスタメンバーとは無関係であるとされていますが、七咲ニコルと春日部ハルの関係や天神ネロと春日部ハルの繋がりがその声を接点としてこの2人へ投影されたものと考えるのも面白いかもしれません*8

4. 夏陰とは何か

主題を『NATSUKAGE -夏陰-』に戻して、上述のギミックを踏まえながらタイトルと歌詞の物語的な解釈を試みます。

 

まず『NATSUKAGE -夏陰-』という曲名についてです。「夏」「ハル」と「陰」「カゼ」の単語に分解すれば、これは『ハルカゼ~You were here~』との対句になっていると考えられますが、その「夏陰」とは一体何のことでしょうか。

現代語で"かげ"と訓読みできる常用漢字には"影"と"陰"の二字があり、詳細な語法は省略しますがどちらも"光などが物によって遮られることで生じる隠れた部分やそのシルエット"のことを意味します。ではこの曲でいう「陰」では何が何に隠されているのか、それは結論から言えば「青空」が「入道雲に」隠されたことで生じた陰を指すのではないかと筆者は推測します。

改めて述べるまでもなく、ナナシスにおいて「青空」は特別な意味を持った言葉です。青空は誰でも・どこにいても見上げればそこにあるもの、多かれ少なかれ誰もが憧れを抱くもの、それでいてたどり着くのは簡単ではないものです。転じてナナシスではかつてセブンスシスターズが昇りつめ777☆Sが目指しているアイドルの頂点のメタファーとして多用されています。たとえばナナスタ初のシングル『僕らは青空になる』ではゲームエピソード1.0を経て「彼女たちが手に入れた決意*9」が宣言されたし、昨夏の日本武道館公演では777☆Sのキャスト12名が初めて青空を模したステージの上に立ちました。ずっと「青空」を下から見上げてきた彼女たちが遂にそこへ足を踏み入れようとするという、ナナシスの物語上きわめて大きな出来事でした。そのライブと同名のメモリアルシングル『MELODY IN THE POCKET』でも同様のジャケットイラストが採用され、「青空に 届きそうだよ 今にも」と高らかに歌われたことも記憶に新しいでしょう。「青空」は常に彼女たちが歩む先にある崇高な目標であり続けているのです*10

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しかし、青空はいつだって見えるわけではありません。青空が美しく映えれば映えるほど、焼けるような強い陽射しが地面に照りつけ、そこから生じた多量の水蒸気が上昇気流となって上空に滞留します。積乱雲、入道雲の発生過程です。入道雲は瞬く間に青空を覆い隠し、それまでの晴れ間が嘘だったかのような激しい雷雨を降らします。これはもちろん、777☆Sの前に立ちはだかる屈強な刺客であるAXiSを表す比喩でしょう。

この入道雲もまた作中で象徴的に表現されています。例えば『EPISODE 4.0 AXiS』の第1話では早くも、「この時はまだ、誰も気がついていませんでした この出会いが…… 私たちの運命を 大きく変えてしまうことになるなんて」という春日部ハルのモノローグとともに、晴れ渡る青空へ差し迫る入道雲が現れます。777☆Sを行く手を阻む大きな波乱=AXiSの到来を予感させるイラストです。このシーンがエピソード4.0全体のタイトルコールとなっていることからも、その意味するところは想像に難くありません。また奇しくもと言うべきか、このイラストの構図は『FUNBARE☆RUNNER』のサビの歌詞「見上げれば青と入道雲そのものなのです。

f:id:thicksack:20190602091249j:plain*11

エピソード4.0が進むにつれてこの入道雲は青空をみるみるうちに侵食していき、やがて鉛色の空がTokyo-7thを覆うようになります。AXiSが突きつける苛烈な現実を目の当たりにした彼女たちは、空を見上げることもせず、傘もささずに、群青色の道標を見失ったまま彷徨います。雨の降り止まない淀んだ空気感も相まって、誰かを励ますのはおろか今は自分も笑っていられないその姿は悲痛というほかありません。

これらのことから、「夏陰」とは「青空」を目指す777☆Sに対峙するAXiSが扇動した混乱、ないしはそれを通して浮き彫りにされた経済特区の広く深い闇を指す隠喩であるといえます。

f:id:thicksack:20190602093446j:plain f:id:thicksack:20190602093435j:plain*12

 

続いて現在公開されている『NATSUKAGE -夏陰-』1番の歌詞を、筆者の仮説を交えて解釈します。*13

日ごと高くなる青空のゆくえを

ひどく眩しそうに見ていたあなたの

声が遠くなって気がついた*14

冒頭で歌い手(777☆S)が語りかける「あなた」が登場しました。この「あなた」は青空を眺めていたのですから当然「青空」自身ではないうえに、「ひどく眩しそうに」という言葉からはその「青空」を直視できずどこか煩わしく思っているようにも映ります。ここで「青空」はセブンスシスターズ、「あなた」はAXiSに対応すると仮定すれば、日夜勢いを増す一方のセブンスシスターズを傍観するしかなかったAXiS(あるいは天神ネロ?)の姿と重なります。そんな「あなた」の「声が遠くなった」、すなわち(あらゆる騒動が収束したあとに?)AXiSが777☆Sのもとから離れてゆくようすが想像されます。

またこの季節がやってきて温もりをさらうよ

「この季節」は曲名からのことだと推測できますが、「温もりをさらう」という表現はその夏という季節の"有害性"が暗示されている、と筆者は考えます。

夏は一年の中でも上に述べた青空が最も澄みわたる季節です。ナナシスにおいてどこまでも透き通った夏の空は、アイドル達を照らして目指す場所を示す自己実現の錦の御旗として在ったのでした。ところが反面、容赦ない夏の陽射しは人々へ牙を剥くこともあります。真夏になれば熱射病や脱水症状などの被害のニュースが毎日並ぶのもけして珍しくはありません。求めようとも求めずとも、その日光は誰のもとにも手加減なく降り注ぎます。天神ネロは、かつてセブンスシスターズの隆盛が他のアイドルを窮地に追いやった構図をこの夏空の凶暴さになぞらえて批判しています(第8話)。

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猛暑の中にあっては、他人の体温を感じ取る感覚すら奪われてしまう。周囲の気温がヒトの平熱に並ぶほど著しく高いためです。これは俵万智が「「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ」と詠んだ冬とは対照的でしょう。頭上の青空に没頭するあまり、同じ地平に暮らす他者の温もりに盲目的なってはいないか。この輝かしい青空のウラに、彼ら/彼女らの犠牲や痛みがあることを忘れてはいないか。あくまで筆者の解釈ですが、「温もりをさらう」という一節は、そのような天神ネロから春日部ハルに向けられた警告とひと続きになっているのだと思います。「ナナシスの夏、ハジマる!!」*15「また夏が来たよ、支配人さん!」*16ほぼ一方的に夏が憧れの対象とされてきたナナシスにおいて、夏ないしは青空に対して批判的な示唆が与えられたのはこの歌詞が初めてなのではないでしょうか。

(そっと)耳元を(めぐり)すく風が

歩き出せずにいる私を叱る

右手に残ったさよならが今も痛むよ

左手伸ばしてつかもうとするけど

触れられずに肩越し響いたの

あなたのいない夏の足音

そしてBメロからサビにかけては救いようのない別離の嘆きが表れています。

「あなたのいない夏」より、語りかけている相手(AXiS?)が既に失われた存在であることが明らかとなります。また「さよならが今も痛むよ」「風が歩き出せずにいる私を叱る」とあるように、それによって歌い手(777☆S)の側はまだ行動を起こせないほどの失意のさなかにあることがわかります。例えば上述の『ハルカゼ~You were here~』が「涙を隠しながら 誰かの背中を押すため」*17の歌とされていたのと比べて、同じ別れの歌であるはずの『NATSUKAGE -夏陰-』ではそのような離れゆく誰かを応援したり慰めたりする意図が全く汲み取れないのです。こうしてただ別れの悲しみだけを述べることに終始するという点も、これまでのナナシスの楽曲群ではまずあり得なかったことでしょう。そこには彼女達が追い求めてきた「アイドル」像はありません。誰かを後押ししたり見守ったりできるような存在こそが彼女達の定義する「アイドル」だからです。今はそれ以前に一人ひとりの人間として大きな喪失に打ちひしがれているようにも見えます。

 

5. おわりに

以上が『NATSUKAGE -夏陰-』に関して筆者が提案する一解釈です。同曲は『EPISODE 4.0 AXiS』のエンディングテーマ、つまりAXiSによる一連の擾乱が幕を引く(であろう)ときに捧げられる曲です。そこでは未だ癒されることのない喪失の経験が777☆Sによって綴られます。「(承前)すべてを灰にしちゃる。そんで、燃え盛る業火の中で、高らかに笑っちゃるばい。」*18という天神ネロの予告や、「―溢れかけた涙ごと 灰になってもかまわない」*19という『COCYTUS』のキャッチフレーズを勘案すれば、777☆Sが失ったのは自分たちごとすべてを燃やし尽くそうとして消え去ったAXiSなのではないか、との推測が成り立ちます。その点で、大いなる存在を失ってしまった777☆Sによる『NATSUKAGE -夏陰-』は、2.章で確認した共通点を介して、何もかも失ってしまいたいと望むAXiSによる『COCYTUS』へのアンサーソングとしての役割をも果たすのです。

とはいえ、ジャケットイラストには日常的なナナスタ事務所の風景が描かれており、777☆Sのメンバーたちはこれまでの「夏」を取り戻すことも予感されます。もしAXiSの大禍を乗り越えた先で彼女たちが再び目標へ向けて歩き出せたのなら、それは『僕らは青空になる』の「雲が晴れて 僕ら青空になる」 という歌詞が宣言した通りの展開なのだろうと思います。

 

なお、これらの推察は本稿公開時点(2019年6月初旬)での筆者の考えをまとめたものであり、今後公開される『EPISODE 4.0 AXiS』のストーリーや『NATSUKAGE -夏陰-』2番以降の歌詞のいかんによっては異なった捉え方ができるようになる可能性があります。また本稿で検討した以外にも、前述の『ハルカゼ』アニメ登場人物と七咲ニコル・天神ネロ・春日部ハルのCVが共通しているのはなぜか、『NATSUKAGE -夏陰-』のイラストでハルが微笑んだ相手は誰なのか、サビの「右手」「左手」に意味はあるのかなど、まだまだ疑問は絶えません。

 

*1:https://twitter.com/t7s_staff/status/1126426870528921600

*2:筆者は作曲技術に関して全くの素人なので軽く触れるに留めます…。

*3:https://twitter.com/sousyu_t7s/status/1126481967581499394 および 

https://twitter.com/sousyu_t7s/status/1126484308426805249

*4:『NATSUKAGE -夏陰-』ではあまり多くありませんが、例えば1分12秒前後で画面が赤っぽく明滅しているのがそれです。

*5:それぞれ上記の動画内より。以下同。

*6:https://twitter.com/COCO_09m/status/1111207416488591360 ほか

*7:2枚目はhttp://t7s.jp/release/cd.htmlより。以下同

*8:これについては今後の課題とします。

*9:http://t7s.jp/release/ingame/16.html

*10:ナナシスと青空に関してはhttp://nki26.hatenablog.com/entry/2019/01/19/235200なども参照

*11:Tokyo 7th シスターズ』ゲーム内『EPISODE 4.0 AXiS』第1話より

*12:同第8話より

*13:フルサイズ楽曲公開後に追記するかもしれません。

*14:上記動画より筆者が聴取。以下同

*15:『僕らは青空になる』CD帯フレーズより

*16:2018年7月・メモリアルライブ『Melody in the Pocket』in 日本武道館にて

*17:https://www.jvcmusic.co.jp/t7s/1159/

*18:同第8話より

*19:上記『COCYTUS』動画説明文より