思索の試作

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「お返しします」から「行ってきます」へ:『すずめの戸締まり』が描く、過去と未来の間で生きること

※本稿は『すずめの戸締まり』のネタバレを多分に含みます。また映画本編と同様に、衝撃的な地震災害についても言及しています。閲覧には十分ご注意ください。
※本稿の内容はあくまで筆者による一解釈であり、それ以外のあらゆる考察や感想を排除するものではありません。

 

2022年11月11日、新海誠監督による新作アニメーション映画『すずめの戸締まり』が公開されました。川村元気氏のプロデュースによる『君の名は。』『天気の子』に続く、同監督の記録的ヒット作の3本目になると早くも目されています。
"災害三部作"とも呼ばれるこれら3作品のなかでも、今作では自然災害についてより直截的で深刻な表現が多くみられました。本稿ではその物語の要素をかいつまんで振り返りつつ、作品に根差しているテーマを私なりに整理してみます。

 

 

1.思い出すこと、忘れないこと

主人公の高校生・岩戸鈴芽は、通学路の坂道で大学生の青年・宗像草太と出会います。草太は日本全国の廃墟に現れる「後ろ戸(うしろど)」を探しては鍵をかけて回る、「閉じ師(とじし)」の末裔です。
後ろ戸の先には"すべての時間があ"るとされる死者の世界、常世(とこよ)が広がっています。後ろ戸が開いていると常世から巨大な「ミミズ」が飛び出てきてしまい、そのミミズが金の糸に引かれて地面に叩きつけられるとき、こちら側の世界である現世(うつしよ)に地震が発生する、という仕組みになっています。
またミミズが見えるのは閉じ師の草太や後ろ戸をくぐったことがある鈴芽に限られています。そのため大多数の現世の人々には地震の発生を予見することはできず、携帯電話から突然一斉にけたたましく鳴り響く緊急地震速報に驚かされ、準備もままならないうちに直後に訪れる揺れからなんとか身を守るのがやっとです。緊急地震速報を模した警報音や揺れに伴う轟音が、劇場の大口径のスピーカーから大きな迫力をもって表現されます。地震の後に鈴芽たちが目にしたのは、屋根瓦が落ちて損傷した家屋や部屋中に散乱した家財などでした。また本編の後半では東北の帰還困難区域や津波で建物がすべて流され基礎だけが残された街など、衝撃的な光景も登場します。
世界的にも地震の多い地域である日本に住む私たちにとってこれらの映像・音響体験は、自らが実際に経験あるいは見聞きした地震のこととどうしても結びついてしまうことでしょう。大きな地震であればあるほど街を激しく破壊し、時には人の命をも奪い、綿々と続く日常を一瞬にして途絶えさせてしまうことを私たちは知っています。関東地方の劇場でご覧になった方は、宮崎、愛媛、兵庫、そして次は東京と、予知も抵抗もできないミミズの襲来に恐怖を抱かれた方もいたかもしれません。
言うまでもなく、鈴芽たちが巡った阪神・淡路*1や東北はかつては実際に大震災が襲った場所でした。今年はその発生からそれぞれ27年・11年が経過しました。災害の記憶の風化が叫ばれる中、本作の描写はその災害のありさまを痛ましいほど生々しく再現し、長い時間が過ぎても忘れてはならないものがあるのではなかったか、と2022年に一石を投じようとしているようにも感じられます。

しかし、ここで想起させられているのは負の記憶だけではない、というのが本作の興味深いところです。
小学校の廃墟で開いた後ろ戸を閉じるとき、草太は鈴芽にこの場所に残された人々の声や想いに耳を傾けるよう促しました。言われるがままに瞳を閉じた鈴芽の内には、下駄箱の前で交わされる往時の生徒たちの他愛もない会話が幾重にも折り重なって聞こえてきます。すると学校の玄関の扉に鍵穴が出現し、鍵をかけて後ろ戸を閉じることに成功したのです。
海部千果はあそこにはもう"何もない"と言いいましたが、鈴芽が感じ取ったように、そこにはかつてたくさんの人々の生活と言葉と感情があったはずです。鈴芽が聞き取った無数の声には楽しいことも嫌なことも、たくさんあったことでしょう。それらを想起することで鍵穴が浮かび上がるというギミックは、正負はともあれ失われつつある記憶に思いを馳せる行為、時には思い出して忘れないでいることに特別な意味を与えているものといえます。

2.繋ぎ留めるもの

後ろ戸を閉じながらダイジンを追いかける草太(椅子のすがた)と鈴芽の旅路は、同時に各地の人々との出会いの連続でもありました。
廃墟の学校の前まで今すぐ行きたいとの不可解な話を聞き入れ、原付で鈴芽たちを送り届けた後、家の旅館の客室を提供して豪華な夕食を振る舞い、自分の衣服までを着替え用として差し出してくれた海部千果。土砂降りのバス停で途方に暮れる鈴芽たちを見つけて*2神戸まで200km以上の距離を送り届けた後、子供の世話やスナックの手伝いは大変だったけれど、突然姿を消した鈴芽を誰よりも心配してくれた二ノ宮ルミ。どれも出会ったばかりの見ず知らずの相手に対して容易に施せることではありません。いくつもの無償の厚意と暖かい言葉に触れるたび、そんな人々の住むこの世界=現世を守りたいという鈴芽の思いは強まったことでしょう。みな鈴芽と抱き合い、再開を約束して別れます。
そして何より、草太への思いを通じて鈴芽の死生観に大きな変化が生じました。自分が死ぬのは怖くない、生きるか死ぬかなんて運でしかない、とかつての鈴芽は考えていました。震災孤児の口から発されるにはあまりにも残酷な台詞です。それが東京の巨大ミミズを治めて草太を失った後には、草太のいない世界が怖いと吐露するまでになりました。だからこそ鈴芽は、環があそこにはもう何もないと言う東北の故郷まで駆けつけ、常世に飛び込んで草太を救い出したのです。
そして常世の丘の上でダイジン・サダイジンの二柱へ祈りを捧げるとき、草太はこう語ります。生命はかりそめだと知っています、死は常に隣にあると分かっています、それでも今一時、今一瞬だけでも生き長らえたい、と。それを聞き届けた二柱は要石へと姿を変え、常世を蠢く二つの巨大ミミズを鎮めることに成功しました。
心から大切だと思える存在、かけがえのない誰かがこの世界のどこかにいるからこそ、人はそれらと共にありたいと願い、死というこの世界からの退出を恐れるようになるのだと思います。千果、ルミ、そして草太。宮崎から東北へ至る道のりの中で鈴芽はかけがえのない存在をたくさん見つけて、そんな人たちと会えなくなるのが嫌だ、つまりこの世界で生きていたいと感じることができるようになったのです。ミミズは要石によって常世に繋ぎ留めらましたが、私たちを現世に繋ぎ留めているのは他の誰かと結ばれた強い思いに他ならないのかもしれません。

3.「お返しします」と「行ってきます」

二つの巨大ミミズを鎮めた鈴芽と草太は、常世で別の女の子の姿を見つけます。それは椿芽を探していつしか吹雪の中から常世へと迷い込んでしまった、幼い日の鈴芽でした。それは母親という子供にとって大きすぎる存在を見失い、現世に自らを繋ぎ留める錨が外れてあてもなく常世を漂流しているかのように見えました。
この少し前に、真っ黒に塗りつぶされた3月11日の日記帳が登場します。綴られている文字はもう読めませんが、高校生の鈴芽がそのページを開いた途端、一帯に鳴り響く大津波警報、椿芽を探して泣き叫ぶ鈴芽の声、そこに同情の言葉をかける大人たちの声が劇場のスピーカーから再生されます。どんなに強引にかき消そうとしても、現実と向き合うことを拒んでも、記憶や感情はその隙間をすり抜けて再び私を襲ってくる、という点で惨くも示唆的なシーンです。無理もないことですが、母親の死を認めたくなかったのか、とにかくあの災禍の光景を忘れたかったのか、鈴芽は3月11日のページをクレヨンで黒塗りにしてしまったのでしょう。*3しかし"本当は分かっていた"のではないか、という高校生の鈴芽からの指摘が鋭く刺さります。*4
そんな幼い鈴芽に手渡されたのが、草太が抜けて普通の椅子に戻った黄色い椅子でした。この椅子を作ってくれた椿芽はもう存在しません。それでも高校生の鈴芽は、"あなたはこれから光の中で大人になっていく"、"これからこの世界で誰かを好きになるし、あなたを好きになってくれる人も沢山見つかる"と語りかけます。それはまさに宮崎からここに至るまでの道のりで鈴芽自身が経験してきたことであり、それに裏付けられた自信の強さが感じられます。椅子と言葉を受け取った幼い鈴芽は自らの足で後ろ戸をくぐり、環の待つ現世へと戻って行くのでした。
これまで現世に襲いかかるミミズを常世へと追い返していた二人ですが、このときは反対に、常世へ迷い込んだ幼い鈴芽を現世へと送り返したのです。ミミズ退治の際の「お返しします」と、全て終えて常世から戻ってきた鈴芽が口にした、この世界で待っている未来への「行ってきます」は、どちらも後ろ戸に鍵をかけるときの合言葉として対をなしています。

4.まとめ

東日本大震災から11年。当時保育園に通っていた鈴芽がちょうど高校生になる頃です。その記憶は誰かにとってはどこか遠いものとなり、また誰かにとっては未だ癒えない爪痕のままで、認識の個人差は少しずつ広がってきているのかもしれません。
この文章を書くにあたって、直接の被災者でない私は一抹のきまりの悪さを感じていました。私にとって震災は一人称の経験ではなく、伝聞と想像によってしか語ることができないものだからです。何気なく書いた言葉が被害に遭われた方々をさらに傷つけることになってしまわないか、このテーマに触れるときはどうしても気にかけてしまいます。他人の不幸をコンテンツとして消費するのか、という批判もあるでしょう。
そしてこの映画を制作している新海監督も、おそらく似たような葛藤を感じられていたではないかと思います。これほどに直截的な描写や言葉が当事者の方々にどのように受け止められるか、予想はしきれなかったはずです。そんな中で本作は封切られ、今の日本でこそ大きな意味を持つこのテーマは様々な意見を交えながら大きな反響を呼び起こしました。アニメーション業界で屈指の話題性と根強いファン層を持つ新海監督でなければ成しえなかったことだと思います。その果断に敬意を表し、私も所感を添えることが許されるのならば、こう締めくくりたいと思います。ミミズのように突然私たちに襲いかかる災害の脅威。後ろ戸に手をかけた時に聞こえてくる、かつてそこにあったはずの人々の生活と言葉と感情。ともすれば語りにくいものとして遠ざけられてしまうけれど、黒塗りの日記帳のように心の中では消せずに残り続ける大災害の記憶。それらを生々しいほど浮き彫りにしつつ、一方でそんな世界の中でもたくさんの大切な存在を見つけて、かけがえのない人々と分かち合う未来を夢見て「行ってきます」と生きることの意味を肯定的に描き出す。鈴芽と草太の物語は、そんな前向きな意志に溢れていました。
いつ終わりを迎えるか分からない生命であっても、避けられない運命があるとしても、今はまだ何も持っていないとしても。大切な存在との出会いを信じて今を生きるのはきっと無意味なことではなく、むしろ何かを成し遂げる代えがたい力になるということは、二人のこの長い旅路が証明しています。

 

*1:愛媛県西条市から兵庫県へ抜ける自動車道は瀬戸大橋経由(瀬戸中央道)と淡路島・明石海峡大橋経由(神淡鳴道)の2つがあるが、本作で後者が選ばれたのには距離が短いのに加えて被災地という含意もあるのかもしれない。

*2:とてつもない観察力である。

*3:心的外傷から身を守るためにはストレスと適度な距離を保つことも時には重要であり、その意味で日記帳を黒塗りにした鈴芽の行動も決して誤りではない。

*4:文化人類学の理解によれば葬儀とは、受け入れがたい故人の死を現実のものと認められるようにするという、残された者のための機能をもつものなのだそう。